記憶の旅-Journey of his memory-

知人が遺した文章を載せるため、また自分が読むためのブログです。

【記憶の旅-1】ふたつの風景

 「生まれてから今まで見た風景で、一番心に残ったものは?」と、ぼくは時々人に質問する。 
 人によって答えは違うし、なかなか答えが返らない場合もある。実はぼくはその答えを持っていて、実はこうゆう質問をするときはそれを語りたい時である。それがぼくという人間のバックグラウンドを語ってくれるかもしれないからだ。 
 ぼくがその質問をされたら、ぼくは二つの風景を迷いなくあげる。二つとも優劣つけがたく、どちらかを選ぶことはできないのだ。 
そのどちらも、本当にこの目で見たものなのか、と思われるほどこの世離れした風景なのだが、確かにどちらもぼくの目に映って魂に焼き付けられたものに違いないのだ。 

 その二つともが、飛行機の上から見た風景である。 

 最初は、8才の時。 
 その頃ぼくの家族は父の任地の南アフリカ共和国で暮らしており、父の4年の任期が終わってぼくたちは帰国の途についていた。もちろん今でも南アフリカと日本の直行便などないはずだが、この時ぼくたちも、住んでいたヨハネスブルグからいったんパリまで行き、ヨーロッパの国々を回って日本に向かう予定だった。 
それはぼくにとって、記憶に残る初めての飛行機での旅だった。ご多分にもれずメカと言えば目を輝かせていたぼくにとって、初めて乗る飛行機は興奮の連続だった。その後何度か乗り継いだ飛行機の機種はその頃全部覚えていたが、今はこの時の便がエールフランスだったことしか覚えていない。まだジャンボジェットが就航前の話である。 
初めて乗る飛行機はとても清潔に感じられ、ぼくは用もないのに何度もトイレに行っては、手を洗ったり、ドアを開け閉めしたりしていた。けれども途中給油のため立ち寄ったキンシャサを発ってからもうすでに長い時間が経っていた。さすがにぼくは退屈しきっていて、腕時計を眺めてはあと何時間何分、ということを確認して時間をつぶしていた。目的地のパリには深夜に到着する予定だったが、まだまだ先は長かった。 
 ふと、機内の様子が変わってきた。少し陽が落ちてきた気配が機内に満ち初めていた。窓の外を見るのはとっくに飽きていたが、ぼくはもう一度窓の外に目を向けてみた。 
 次の瞬間、ぼくは何を見ているのか分からなくなってしまった。 
 赤だ。赤い色彩が一面に広がっている。頭上には蒼い空が見えるのだけど、下のほうはただ赤い色彩しか見えないのだ。その赤色の中に視線は吸い込まれ、距離感も空間の感覚も消えうせてしまう。空の蒼とその赤色は、どこかで分かたれているはずなのだけど、遠くをみても何か曖昧な深みに飲まれて、境目は判然としない。もちろん当時のぼくは抽象絵画なんて思い浮かばなかったが、その世界に入ってしまったかのようだった。ぼくはその色彩に圧倒されていた。 
 最初のインパクトが去ると、ぼくはほどなく合理的に自分の目に映っているものを解釈しはじめた。そうか、飛行機は今サハラ砂漠を縦断中なのだ。砂漠の色は黄色と思っていたけど、今は日没時で、きっと夕陽が砂漠を染め上げているんだろう。

ぼくが覗いている窓は東を向いているから夕陽は見えない。東の空から徐々に暮れていく夜の闇が、空と砂漠の境界を飲み込んでいるんだ。・・・というような事を理解したのだった。 
 しかし、理解してもなお、それは信じがたい、圧倒的な光景だった。ぼくはいつまで窓の外を見続けていたんだろうか。もう思い出せないけれども、この砂漠を渡っている間に夜が訪れたことは確かである。 

 次の光景を見たのは、ぼくが学生の時・・・正確に言うと学生を終えようとしている頃だった。 
 今にして思えば、最初の光景に出会ってから、この2回目の光景に出会うまでの間、15年でしかない。15年、というと長いのか短いのかちょっとわからない期間である。ぼくが父親になってから14年だし、15年前の事は鮮明に思い出せる。たいして長い期間であるとも思えない。 
 ただ、ぼくが子供と時と学生になってからの15年というには、世の中に大変な変化をもたらしていた。1ドルにつき固定で360円だったドルの価値は、変動相場となりその半分ぐらいまで下がっていた。おかげでぼくのような中産階級出の学生でも、海外に旅行に行くのが現実的になってきていた。現にリュックひとつ背負って海外を旅する若者はこの頃にはかなりいたし、そうした貧乏旅行者用のガイドブックまで出ていてたのだ。 
 だから貧乏旅行のノウハウのようなものも確立されつつあり、まったく未知なものではなかったのだ。 
 そしてぼくも、大学生活も最後だし、いっちょうリュックひとつでヨーロッパを旅してやろうと日本を飛び出していった一人だった。

そんなわけで、ぼくはその時、東京発ロンドン行きのキャセイ・パシフィックのジャンボ機上にいた。キャセイ・パシフィックといえば今では格が上がってしまったけれど、当時は格安航空券を扱うマイナーな航空会社だったのだ。 
 そして、今でもそうだと思うけれど、ヨーロッパ行きの格安チケットというのは南回り航路なのだ。すなわち、成田から香港に寄り、さらに中東のバーレーンにストップオーバーして、ロンドンに向かう航路である。 
 乗る距離は北周りよりもずっと長いのに、運賃が格安というのはどうゆうことか未だによくわからないけれど、とにかくそうゆう事になっている。 

 さて、それは香港を出て何時間もしてからのこと。 
 成田を昼近くに出た便はロンドンには翌日の朝方着くはずであった。地球の自転とは逆向きに進むわけだから、出発時刻と到着時刻の差、実際の飛行時間は食い違ってくるはずだった。今となっては実際に何時間飛行していたのかも思い出せないのだが、その時のぼくは他にすることもないので、今だいたいどの辺を飛んでいて下界では何時ごろなんだということを計算して時計を合わせていた。その時、飛行機はインド上空を飛んでいるはずだった。 
 ぼくは窓の下を見下ろすと、かなり大きな都市の上を飛んでいるらしく、人口の光が広がっていた。どこまで続くかと見ていたら、それがどこまでもどこまでも途切れない。これはよほど大きな都市だ。ニューデリーの上空でも飛んでいるんだろうかと思って眺めていた。その明りがようやく途切れると、こんどは地表は真っ暗になる。そうしてしばらくした頃、ぼくの目に妙なものが映った。 
 下ではなく、ほとんど目線を下げずに向こうの方を見ると、なにやら光っているのである。青白い光が脈打つように、明るくなったり暗くなったりしているのだ。その光

を見ているうちに、ぼくはさらに異様なものを認めた。 
 壁、のようであった。はるか彼方の大地にそびえる壁のようなものが、その青白い光に浮かびあがっているのだ。何がどうなっているのかわからない。あんなに巨大な壁などあるわけはない。それ自体の姿は見えないのだが、光に浮かび上がってたそれは実体をもっているのは確かだった。 
 それが何であるのか、しばらくして思い至った。 
 航路は東から西へ向いている。そして僕の窓は北向きである。その方角にあるものといったら、ヒマラヤ山脈である。それしか考えられなかった。 
 そう思っても、ぼくにはなお自分で見ているものを信じかねた。それにしても、山があんなに巨大に見えるものだろうか?いくらインド上空とは言え、もっと北に行かないとヒマラヤは望めないのではないか? 
 だが、ヒマラヤ山脈は8千メートル級の山々が連なる山脈である。8千、というと飛行機の高度もそんなものだろう。だいいち、それだけの山をぼくは今まで見たことがなかった。ぼくが見ているものがヒマラヤだとすると、それまでの経験では計り知れないスケールのものを見ているわけだ。経験が通用するわけはなかった。自分が見ているものをそのまま認めるしかない。 
 では、なぜ空が光っているのだろう?これについて、ぼくがその場で考ええたことは、おそらく雷雲が発生しているのだろう、あの明るさは雷なのだろう。それにしても、たまたまその時偶然に雷雲が発生しているのだろうか?それとも、いつもこうなのだろうか?それとも、あれは雷などというものではなく、ヒマラヤはいつもあのように発光しているのだろうか?・・・考えてもわからないものはしかたなった。 
 それを見ているぼくは、深く感動している自分に気づいた。その光っている部分には、奥行きが感じられ、そこにひとつの世界があるように見えた。まさに天上の世界である。こんな神々しい光景を見たことがあっただろうか?ぼくは自分が見ているものが人間の見うるものの中で最高のものではないか、と思っていたのである。 

 今、自分の人生を俯瞰して見れる年頃になって思うのだが、ぼくはちょうど自分の人生の節目にこの2つの風景を見ていたことになる。 
 最初のものがぼくの幼年期の終わりだとすれば、二番目のものは若年期の終わりである。 
 そのヨーロッパの一人旅が終わればぼくは会社に就職し、社会というものに嫌でも組み込まれていくことになるだろう。 
 ぼくにとってその旅はそうゆう位置づけにあったのだった。