記憶の旅-Journey of his memory-

知人が遺した文章を載せるため、また自分が読むためのブログです。

【記憶の旅-5】イギリス英語考

 ナショナルギャラリーに行ったその日にぼくは1日ロンドンを歩き回り、徐々に街の雰囲気に馴染んでいった。ぼくの英語は通じたし、ロンドンにくる電車で覚えた不安は消えつつあった。しかし、やはり耳に入ってくる英語にはまだ馴れることができない。その分かるような分からないような言語は、ぼくの周りを薄い霧のように立ち込めているという感じだった。 
 これまで英語としてしてぼくの頭にインプットされてきたものと、ここで使われている「英語」には明らかにズレがある。日本の教育はもちろん英語の発音などいい加減にしか教えないが、それでもそのベースはアメリカ英語にある。その英語の知識に加え、ぼくはポップミュージックの歌詞を暗記して口ずさんだりしていたのと、かなりの本数の映画をみたりしていたので、「音」になった英語にもそこそこ馴染んでいた。こうしたものがぼくの中で形作られていた「英語」だった。 
 その英語と、イギリスの英語にここまで違いがあるとは思ってもいなかった。 

 これもそうした経験のひとつ。 
 夜になって、ぼくは安そうな食堂を見つけて夕食をとることにした。混んでいる店の中で、ぼくは空いたテーブルを見つけ、メニューをめくった。もちろん英語なので、だいたいの見当はつく。注文を決めて待っていると、やがてウェイトレスが来た。 
 若い女性で、顔立ちはいいのだけれど、そのウェイトレスには愛想というものがまるでない。来た瞬間にそう思った。彼女はぼくを見下すように注文を待っている。 
 -ついでに言うと、旅行の間に食堂に行って、これはもちろんぼくが行くクラスの食堂、という意味だか、愛想のいいウェイターなりウェイトレスというのを1人の例外を除き、全くお目にかからなかった。その1人の例外というは、おそらくマリファナで酔っ払っていたのだが。なるほど、愛想というのもサービスの一環で、ぼくが行くクラスの食堂ではそれは望むべくもないものなのだ、とぼくは知ることになる。彼らは笑うのももったいない、と言わんばかりなのだ。そしていかに日本ではデフォルトで愛想というサービスがついている店が多いか、ということもぼくは気づかされたのだった。 

 さて、ウェイトレスに注文を伝えると、そのウェイトレスはぼくに何か聞き取れないことを言った。  
「でゅはてってでぃん?」 
というように聞こえることを1音節の単語のように一瞬で言ったのだ。 
 「はい?」 
 ぼくが聞き直すと、ウェイトレスは、言葉を足してわかりやすくしようなどとはハナから思っていないらしく、ぶっきらぼうにさっきの、 
 「でゅはてってでぃん?」 
を繰り返した。 
 いったいなんなんだ?何を言いたいんだ?しかし、何となく解りそうな気がする…。ぼくはこの言葉にしばし神経を集中した。 
"DYHTTDIN?" 
 と、突然に、電子レンジで解凍されるようにこの言葉が一つの文章になった。 
「ひょっとして君は」 
ぼくはウェイトレスを見上げて言った。 
「"Do You Have Something To Drink ? (何かお飲物は?)"と言ったの?」 
 えらく待たされていたウエイトレスは、無表情でぼくを見下ろしていたが、こんなことに無駄な労力は一切使わないとでもいうように、最小限の動きで顎をかたむけてそれを肯定した。ぼくはメニューのソフトドリンクの欄を一瞥し、 
「いや、結構(No thank you)。」 
と言った。 

 この会話がきっかけで、ぼくはイギリス英語を聴くコツがちょっとわかった気がしてきた。イギリス英語は、何というか、アメリカ英語より尖っているのだ。そうゆう印象をうける。では何故そう聞こえるかというと、子音を非常に強調して発音しているからなのだ。例えばTの音を発音するのに、アメリカ英語は舌を上歯の裏に軽くつけて離し、ソフトな音を出す。ところがイギリス英語は上歯につけた舌を破裂されるように離し、舌打ちでもしているような音をだすのだ。たとえば、tunnel (トンネル)という言葉も、アメリカ英語なら「トナル」と聞こえ、イギリス英語なら「ツォナル」と日本人には聞こえてしまうのだ。 
 また、母音の聞こえ方もアメリカ英語とは違う。何というか、アメリカ英語よりも鼻にかかり、口の中でこもって聞こえるのだ。何度かその音を真似ようとして、なんとなくコツはわかった。アメリカ英語では、そのまま口を開けて出す音を、口の開きを最小限にして発音すると、音は鼻の方に響く。こうするとイギリスっぽい母音の発音になる。 
 さらに、英単語の母音には長く伸ばす「長母音」と、短い「短母音」があるが、アメリカ英語では聞き取れる短母音が、イギリス英語では聞き取りにくい。本当に短く、子音と子音の間にちょっとおかれた間のようなもののように発音される。また、「弱母音」とでもいうのか、近くにアクセントがおかれた音があって相対的に聞こえにくくなる母音は、イギリス英語ではほとんど無視されていて、前後の子音だけをつなげたように発音される。母音によって緩衝されていないゆえに、イギリス英語は堅く、尖って聞こえるのだ。これがまた日本人にはやっかいだ。日本人は発音の単位は基本的に子音と母音が分かち難く結合したものだから、子音だけをつなげた音は認識パターンにない。ゆえに、相当に聞き取りにくくなるのだ。 
  
 こんなことを書くとさも「偉そー」だが、ぼくは言語学者ではないし、さして英語に造詣が深いわけでもない。もちろん以上のことは学術的な裏付けはまったく取っていない。ただ自分が肌で感じたことを述べているだけなのだけど。。 
 とにかく、そのように理解するとイギリス英語もなんとなくわかってくるような気になった。耳にするイギリス英語がアメリカ英語よりも粋に聞こえて、むやみに楽しくなったりしたものだ。 

 もちろんロンドンには、イギリス英語というよりもロンドン訛り、というべき言葉も多く話されている。その代表的なものが「コックニー」といわれているものだが、他にもたくさんあるらしい。 
 映画『マイ・フェア・レイディ』では、ロンドンの地区ごとにある訛りに精通した言語学者が主人公だが、この設定も悪い冗談なのか、本当にありうることなのか判別つかない。そんな可笑みがあるのである。 

 そのコックニーだかなんだか、ロンドンの街言葉になると、さすがにもうお手上げだ。 
ヴィクトリア駅近くを歩いているときだった。いきなり、誰かに話しかけられた。 
 「◇★▽♂ちぺ□●◇?」 
 汚れただぶだぶの服を着た、赤毛の貧相な顔つきをした男だった。 
 「HA?」 
 ぼくが聞き返すと、男は 
 「◇★▽♂ちぺ□△◎◇?」 
 と、また聞き取り不能の言葉を発した。見ると、男は看板をかついでいて、それにはホテルの宣伝文句らしきものが書かれている。男の言葉からは、「ちぺ」という音だけは拾えた。「ちぺすぉ…」と言っているようにも聞こえる。ひょっとして、"cheapest hotel" (格安ホテル)と言っているのか? 
「ホテルの宣伝?」 
 と聞くと、 
「◇◎、□♀★」 
 と返ってきた。外れてはいなさそうだが、今度は全く聞き取れない。 
「☆◆〇▽♂、□◇★」 
 だめだ、こりゃ。これでは案内されても分からないや、とぼくは降参した。 
「申し訳ない(I'm sorry)」 
 ぼくは言った。 
「あなたのイングリッシュ、ぼくには分からないです」 
 男はなんだか傷つけられたような顔になった。ぼくは急いで背を向けてその場を立ち去った。