記憶の旅-Journey of his memory-

知人が遺した文章を載せるため、また自分が読むためのブログです。

【記憶の旅-5】イギリス英語考

 ナショナルギャラリーに行ったその日にぼくは1日ロンドンを歩き回り、徐々に街の雰囲気に馴染んでいった。ぼくの英語は通じたし、ロンドンにくる電車で覚えた不安は消えつつあった。しかし、やはり耳に入ってくる英語にはまだ馴れることができない。その分かるような分からないような言語は、ぼくの周りを薄い霧のように立ち込めているという感じだった。 
 これまで英語としてしてぼくの頭にインプットされてきたものと、ここで使われている「英語」には明らかにズレがある。日本の教育はもちろん英語の発音などいい加減にしか教えないが、それでもそのベースはアメリカ英語にある。その英語の知識に加え、ぼくはポップミュージックの歌詞を暗記して口ずさんだりしていたのと、かなりの本数の映画をみたりしていたので、「音」になった英語にもそこそこ馴染んでいた。こうしたものがぼくの中で形作られていた「英語」だった。 
 その英語と、イギリスの英語にここまで違いがあるとは思ってもいなかった。 

 これもそうした経験のひとつ。 
 夜になって、ぼくは安そうな食堂を見つけて夕食をとることにした。混んでいる店の中で、ぼくは空いたテーブルを見つけ、メニューをめくった。もちろん英語なので、だいたいの見当はつく。注文を決めて待っていると、やがてウェイトレスが来た。 
 若い女性で、顔立ちはいいのだけれど、そのウェイトレスには愛想というものがまるでない。来た瞬間にそう思った。彼女はぼくを見下すように注文を待っている。 
 -ついでに言うと、旅行の間に食堂に行って、これはもちろんぼくが行くクラスの食堂、という意味だか、愛想のいいウェイターなりウェイトレスというのを1人の例外を除き、全くお目にかからなかった。その1人の例外というは、おそらくマリファナで酔っ払っていたのだが。なるほど、愛想というのもサービスの一環で、ぼくが行くクラスの食堂ではそれは望むべくもないものなのだ、とぼくは知ることになる。彼らは笑うのももったいない、と言わんばかりなのだ。そしていかに日本ではデフォルトで愛想というサービスがついている店が多いか、ということもぼくは気づかされたのだった。 

 さて、ウェイトレスに注文を伝えると、そのウェイトレスはぼくに何か聞き取れないことを言った。  
「でゅはてってでぃん?」 
というように聞こえることを1音節の単語のように一瞬で言ったのだ。 
 「はい?」 
 ぼくが聞き直すと、ウェイトレスは、言葉を足してわかりやすくしようなどとはハナから思っていないらしく、ぶっきらぼうにさっきの、 
 「でゅはてってでぃん?」 
を繰り返した。 
 いったいなんなんだ?何を言いたいんだ?しかし、何となく解りそうな気がする…。ぼくはこの言葉にしばし神経を集中した。 
"DYHTTDIN?" 
 と、突然に、電子レンジで解凍されるようにこの言葉が一つの文章になった。 
「ひょっとして君は」 
ぼくはウェイトレスを見上げて言った。 
「"Do You Have Something To Drink ? (何かお飲物は?)"と言ったの?」 
 えらく待たされていたウエイトレスは、無表情でぼくを見下ろしていたが、こんなことに無駄な労力は一切使わないとでもいうように、最小限の動きで顎をかたむけてそれを肯定した。ぼくはメニューのソフトドリンクの欄を一瞥し、 
「いや、結構(No thank you)。」 
と言った。 

 この会話がきっかけで、ぼくはイギリス英語を聴くコツがちょっとわかった気がしてきた。イギリス英語は、何というか、アメリカ英語より尖っているのだ。そうゆう印象をうける。では何故そう聞こえるかというと、子音を非常に強調して発音しているからなのだ。例えばTの音を発音するのに、アメリカ英語は舌を上歯の裏に軽くつけて離し、ソフトな音を出す。ところがイギリス英語は上歯につけた舌を破裂されるように離し、舌打ちでもしているような音をだすのだ。たとえば、tunnel (トンネル)という言葉も、アメリカ英語なら「トナル」と聞こえ、イギリス英語なら「ツォナル」と日本人には聞こえてしまうのだ。 
 また、母音の聞こえ方もアメリカ英語とは違う。何というか、アメリカ英語よりも鼻にかかり、口の中でこもって聞こえるのだ。何度かその音を真似ようとして、なんとなくコツはわかった。アメリカ英語では、そのまま口を開けて出す音を、口の開きを最小限にして発音すると、音は鼻の方に響く。こうするとイギリスっぽい母音の発音になる。 
 さらに、英単語の母音には長く伸ばす「長母音」と、短い「短母音」があるが、アメリカ英語では聞き取れる短母音が、イギリス英語では聞き取りにくい。本当に短く、子音と子音の間にちょっとおかれた間のようなもののように発音される。また、「弱母音」とでもいうのか、近くにアクセントがおかれた音があって相対的に聞こえにくくなる母音は、イギリス英語ではほとんど無視されていて、前後の子音だけをつなげたように発音される。母音によって緩衝されていないゆえに、イギリス英語は堅く、尖って聞こえるのだ。これがまた日本人にはやっかいだ。日本人は発音の単位は基本的に子音と母音が分かち難く結合したものだから、子音だけをつなげた音は認識パターンにない。ゆえに、相当に聞き取りにくくなるのだ。 
  
 こんなことを書くとさも「偉そー」だが、ぼくは言語学者ではないし、さして英語に造詣が深いわけでもない。もちろん以上のことは学術的な裏付けはまったく取っていない。ただ自分が肌で感じたことを述べているだけなのだけど。。 
 とにかく、そのように理解するとイギリス英語もなんとなくわかってくるような気になった。耳にするイギリス英語がアメリカ英語よりも粋に聞こえて、むやみに楽しくなったりしたものだ。 

 もちろんロンドンには、イギリス英語というよりもロンドン訛り、というべき言葉も多く話されている。その代表的なものが「コックニー」といわれているものだが、他にもたくさんあるらしい。 
 映画『マイ・フェア・レイディ』では、ロンドンの地区ごとにある訛りに精通した言語学者が主人公だが、この設定も悪い冗談なのか、本当にありうることなのか判別つかない。そんな可笑みがあるのである。 

 そのコックニーだかなんだか、ロンドンの街言葉になると、さすがにもうお手上げだ。 
ヴィクトリア駅近くを歩いているときだった。いきなり、誰かに話しかけられた。 
 「◇★▽♂ちぺ□●◇?」 
 汚れただぶだぶの服を着た、赤毛の貧相な顔つきをした男だった。 
 「HA?」 
 ぼくが聞き返すと、男は 
 「◇★▽♂ちぺ□△◎◇?」 
 と、また聞き取り不能の言葉を発した。見ると、男は看板をかついでいて、それにはホテルの宣伝文句らしきものが書かれている。男の言葉からは、「ちぺ」という音だけは拾えた。「ちぺすぉ…」と言っているようにも聞こえる。ひょっとして、"cheapest hotel" (格安ホテル)と言っているのか? 
「ホテルの宣伝?」 
 と聞くと、 
「◇◎、□♀★」 
 と返ってきた。外れてはいなさそうだが、今度は全く聞き取れない。 
「☆◆〇▽♂、□◇★」 
 だめだ、こりゃ。これでは案内されても分からないや、とぼくは降参した。 
「申し訳ない(I'm sorry)」 
 ぼくは言った。 
「あなたのイングリッシュ、ぼくには分からないです」 
 男はなんだか傷つけられたような顔になった。ぼくは急いで背を向けてその場を立ち去った。

【記憶の旅-4】トラファルガー広場とアンダーグラウンド

 さて、観光のスタートである。 
 そこでぼくはまずヴィクストリアステーションで、市バスとアンダーグラウンドのパスを買い求めた。これは何日間か有効な市内交通、バスと地下鉄のフリーパスで、できるだけ交通費を節約したいツーリストには必需品だった。ぼくは確か3日間有効なパスを買ったのだった。 
 パスを手に入れるやいなや、ぼくはさっそくダブルデッカーに乗ってみた。目的地はトラファルガー広場である。バスの路線図は複雑だったが、たぶんこれだろうと思ったバスに乗る。ところがそれは違う路線で、途中で降りては現在地を地図で確かめ、また違う路線に乗って・・・ということを繰り返した。なかなかトラファルガー広場には着きそうにない。しかし構うものか。迷いながらなんとか目的地にたどり着くプロセスがなんとも言えず楽しいのである。時間はいくらでもあるし、こちらにはフリーパスという強い味方があるのだ。 
 なんだかんだ言ってたどり着いたのが、トラファルガー広場。 
 おのぼりさんが集まるところは決まっている。ニューヨークといえばタイムズ・スクエア、東京といえば新宿アルタ前(ほんとか?)、そしてロンドンではトラファルガー広場。 
 ナポレオン軍を撃破したトラファルガーの海戦を記念して作られた広場で、中央にネルソン提督の像、そしてイングランドを象徴するライオンの像がある、往時のイングランドの繁栄を象徴するモニュメント。それ自体はどうということはないのだけれど、イングランドに来たー、という感触を味わうにはやはりこの場所だと決めていた。 
 さて、行ってみるともの凄い人である。この日は週末だったんだろうか?夥しい人々が広場を埋め尽くしていた。渋谷の街中並みである。さらに驚いたのは異常な数の鳩だった。ひょっとして人の数より多いんじゃないか?鳩たちはモニュメントの上に止まり、人々の間のスペースに止まり、さらには人にも止まっていた。もちろん、その人は鳩を止まらせてやってるのだろうが、その中に一人、頭、両腕、肩に鳩を10数羽止まらせた老人がいたのには思わず笑ってしまった。老人は口を開けて何かを叫んでいるようだったが、哄笑しているのか、助けを求めているのかわからない。ぼくはぶら下げてきたカメラのシャッターを切った。それがこの旅で一番最初に撮った写真だった。 
 とにかく広場中お祭り気分である。しばらくその雰囲気を楽しんでいたが、次に、広場に隣接するナショナル・ギャラリーに足を運ぶことにした。 

 たぶんナショナル・ギャラリーはイギリスで最大の絵画コレクションがある美術館なのだが、正直に言ってあまり印象は残っていない・・・。記憶に残っているのは、やたらごみごみした館内の印象だ。人も確かに多かったが、とにかく建物自体が小さいのだ。絵と絵の間隔がとても詰まっていて、ところ狭しと絵が置かれている感じなのだ。ここでの目玉であるダ・ビンチの「岩窟の聖母」は目立つ位置に置かれていたが、フェルメールレンブラントティツィアーノもうっかりすれば見逃すぐらいの扱いである。それに有名な作品を見ても、「あ、この絵がここにあったのか」という感じで、絵から何かを感じるような経験はなかった。 
 そんなわけで、なんとなく物足りない気分でギャラリーを後にしたのだった。 
 さて、ロンドンのシンボルであるダブルデッカーに乗ってみたものの、何度か乗り間違いをしたのに懲りて、ぼくは今度は地下鉄に乗ってみることにした。バスの路線図はおそろしく複雑な上に、交通渋滞でひどく時間がかかる。そこで地下鉄の路線図と普通の地図を見比べて、目的地にまでに乗る経路をつかんで移動したのだが、これが思いがけず楽しい冒険だった。 

 地下鉄のことをパリでは「メトロ」、といい、ニューヨークでは「サブウェイ」と呼ぶ。 
そしてロンドンでの地下鉄の呼び名は「アンダーグラゥンド」(Underground) だ。 
 さらに言うと、アンダーグラゥンドとはロンドンを走る地下鉄の路線のことであって、地下鉄そのものは「テューブ」(tube) と呼ばれている。つまりチューブ、管のことだ。 
 なぜそう呼ばれているか。 
 最初に地下鉄のホームに立ったときには、上が半円になっている穴を見て狐につままれたような気になったものだ。なんだこれは?ここから地下鉄が来るのか?そうでないはずはないよな…。でもなんだこの形は?それに、ちょっと小さすぎないか?こんなに小さい乗り物がくるのか?待っているとやがて、そのカマボコ型の穴から、その穴よりもわずかに小さいだけのカマボコ車両が「うに~」と押し出されるようにやってきた。なるほどこれはチューブだ、と見た瞬間の納得である。 
 それにしてもその大きさが、日本の地下鉄よりも一回り小さいのではないかと思うようなサイズなのだ。屋根が丸いぶん小さく見えるとしても、よくて同じ幅だ。車内がまた天井が円いだけに圧迫感があり、非常に狭苦しく感じるのだ。体格のいいイギリス人がよく乗ってるな、と感心してしまった。 
 ロンドンのカマボコ型の地下鉄は昔からそうゆうデザインだったにちがいない。トンネルも当時、その形でつくられ、すると後代に作る車両はみんなそのトンネルに合わせざるおえず、今日に至ったのだろう。ロンドンの地下鉄が開通したのは19世紀のことだから、当時の規格がそのまま生きているわけだ。 
 ロンドンの地下鉄は世界一古いだけあって、駅の構内もまた見所だった。チェアリングクロスという市の中心部の駅などは地上に出るまでに、曲がりくねった地下道を通っていくのだが、パイプが剥き出しで工事の途中で放棄して何十年もたったような階段が途中にあり、ほんとにこれが地上への道なのかと不安になったものだった。 

 古いと言えば、いくつかの駅で見た古いエスカレーターには仰天した。 
 なんと、木製なのだ。ステップも木製なら、両側の部分も木製。そんな古びたエスカレーターが、ガダダダダダッと音をたてながら、日本の倍ぐらいの早さで動いているのだ。最初に出くわしたそれは下りエスカレーターで、地下3階分ぐらいの深さを吸い込まれるように下っている。思わずステップに乗る手前で立ちつくしてしまった。しばらく他の人が乗るのを見て、ステップの速度を見定めて、やっと乗ることができたのだ。当時、東京で一番長いエレベータは千代田線の新御茶ノ水駅のものだったが、それに近い長さのものはざらにあるように思えた。 
 また今では日本でも普通に見られる光景だが、エスカレーターに乗る人々が必ず左側を空けて乗るのも、ぼくには新鮮だった。それが頭をツンツンにとがらせたパンクファッションのお兄ちゃんだろうが、ぼくの見た限り例外なかった。さすが紳士の国、と感心したものだ。 
  
 かと思うと、また違う日にはこんな光景も見た。テムズ河畔に向かう路線に乗っていたときのことだ。ぼくはつり革につかまって立っていたのだが、テューブは駅をまさに出ようとするところだった。「ピューッ」と音がしたかと思うと、男の子が2人、突然ぼくの脇をすり抜けて閉まりかけた扉からホームへ飛び出した。何事かと思ってあたりを見ると、席に座って新聞を広げていたおじさんのやや薄くなった頭に、色とりどりのビニールの管のようなのがいっぱい垂れ下がっている。 
 さっきの男の子たちの仕業で、クラッカーのようなものを見ず知らずのオジサンにかましたのだ、と気づくのに時間はかからなかった。イタズラされたおじさんは、子供たちの行方を見ていた目を、頭にかぶったビニール管はそのままに、新聞にもどした。目は新聞を見据えてはいだが、そのビニールに埋もれた額がだんだん紅潮していくのは隠せなかった。ぼくはそこであわてて目をそらした。それ以上見ていたら、笑い転げてしまいそうだったからだ。 

 落書きはいずこの国でも同じだが、日本でも見ないようなものを見たことがあった。グリーンパークという駅のホームに書いてあるやつだった。 
"KILL ROYAL PIGS" とスプレーで書かれている。「殺・王族豚」といったところか。そういえば不思議と日本でこの手の落書きは見ないなぁ、と思って見ていた。 

 このアンダーグラウンドの駅は、第二次世界大戦でドイツ空軍のロンドン空襲が続いたとき、防空壕として使われたという。 
 この地下にひろがるアンダーグラウンドの空間は、それ自体が生き生きした魅力をもつひとつの世界だった。 
  
 近年、ロンドンのアンダーグラウンドを舞台にした『チューブ・テイルズ』というオムニバス映画が作られたが、これを見たときには実に感慨を感じたものだった。

【記憶の旅-3】ヴィクトリアステーションの宿

 ぼくは、日本から一冊のガイドブックを旅の道しるべにと持ってきていた。「地球の歩き方」という当時は貧乏旅行者にとって定番のものだった。このガイドブックは所詮、投稿情報で作られているため、その情報と来たらいい加減きわまりない。しかし、そうゆうことを骨身に染みてわかってくるのは後になってからのことである。この時点ではまだぼくはこのガイドブックを頼りにしていた。 
  
 機内ではほとんど眠れていなかったし、旅の緊張もとけてきたせいで、どっと疲れが押し寄せてきた。持ち物はリュックひとつきりだが、10キロ以上の重さがあった。歩き始めると、身体はセメント袋のように重く、一歩一歩引きずるように歩いていた。 
 とにかく近くに宿を決めて休まければ。 
 ガトウィック空港から終点のヴィクトリアステーションに着いたが、「歩き方」を見ると、この駅の裏手には、安ホテルが数多くあるらしい。ぼくは紹介されているホテルの一つに目星をつけ、そこに向けて歩き出した。駅自体が巨大なので駅の裏手に出るにもたいへんな時間がかかった。もうろうとしてきた頭で通りの名前を確かめるのだが、ガイドの地図がいい加減でどうも位置関係が分からない。ほとんど直感に頼って、なんとかホテルのある通りを探し当てた。しかし、そのホテルがどうしても見つからない。探しながら歩いていて、とうとうその通りの端まで出てしまい、また戻りながら地図をみていると、「お困りですか?」と女性のお年寄りに声をかけられた。ぼくが地図を見せると、お年寄りも首をかしげている。やがて、あそこじゃないかしら、と身振り手振りで教えてくれた。行ってみると、書いてあるホテルの名とは全然違う。値段も、紹介されていたのよりは少し高い。しかし、もうぼくはこれ以上探す気力はなかった。それに、ここでまだホテル探しをつづけてあのお年寄りにあったら悪いな、という気持ちもあって、ぼくはそこを最初の宿にすることにした。 
 まだチェックインできる時間ではなかったので、ぼくはいったん荷物を預けてまた表に出た。その日はどんよりと暗い雲に覆われていて、時々小雨が降る暗い日だったが、身軽になるとまだ動けそうだったし、旅を始めた高揚感を無理やり奮い立たせて、ヴィクトリアステーション界隈を散策してみることにした。今日はとりあえず情報収集をしよう、とぼくは決めた。何せ、右も左もわからないのだ。情報は命綱である。 

 「歩き方」に書いてあった貧乏旅行者の原則の一つが、「新しい街に着いたらまずインフォメーションへ行け」ということである。だいたい、ターミナル駅には青い円にiと書かれた目印がある一角があり、それがインフォメーションだ。そこでは街の概略の地図と、市内の交通機関の地図が無料で手にはいる。これは確かに貴重な情報だった。 
 それに従ってぼくはまずインフォメーションオフィスに向かうことにした。なるほど、ここでぼくはロンドン界隈のホテルの情報を仕入れることができた。しかし、無料でもらった地図ははなはだ心もとない大雑把なものだった。さっきホテルを探すのに散々迷ったので、地図はある程度精密なものがほしかった。 
 そこで、次にぼくは本屋に向かった。 
 日本のターミナルビルで見るような明るい本屋がすぐ見つかった。 
 目的の地図を探すのに、いろいろな地図を広げてみては簡単すぎず、詳しすぎず、かさ張らずに一枚で街を見通せるようなものを探した。 
 いろいろ物色して思ったのだが、どうもイギリスの地図というのはどこか安っぽい。道を示す線もなんとなく手で書いたような歪みがあり、精巧さを感じない。・・・あとで色々な街の地図を手にいれることになるのだが、これはどこの国でも同じような印象をうけた。つまり、逆に言えば日本の地図のクオリティが非常に高いのだ。ぼくがその品質に馴れすぎていただけの話なのである。
 ようやく一番ましだと思われる地図を決めたが、これはなかなか暇つぶしになった。この本屋で時間をつぶしていたら、チェックインの時間はあっという間にきそうだった。 
 いろいろな本棚を見てまわり、知っていそうな名前があると引き抜いてぱらぱらページをめくってみた。作家の名前はすぐにわかっても、作品名は英語を見ただけではちょっとわからないものもあった。有名作家のそうした本を見つけては、中身を見て、日本訳の署名を推し量ったするのはけっこう楽しい暇つぶしだった。 
 見ているうちに、本を一冊買おうかという気になった。日本からはルネッサンスについて書かれた文庫本を一冊持ってきただけで、他に何も持たずにきた。極力、荷物は少なくするつもりだったのでこれ以上増やしたくはなかったが、ペイパーバック1冊ぐらいならいいだろう。駅で電車の時間待ちをしているときに気軽に読めるような本。 
 いろいろ物色してぼくが選んだのは、"Catcher in the Rye"、サリンジャーの「ライ麦畑でつかまえて」だった。 

 やっとホテルにチェックインして、荷物をほどくと、ぼくはまず風呂に入ることにした。そこで風呂に入りたいのだが、と言うと、風呂に入るには追加料金が必要だという。やむおえないので払って浴室に行くと、そこには一人用のバスタブがあるだけだった。こうなるとホテルというより民宿といった感じだった。 
 窮屈な機内にいたせいで身体はあちこちこわばっていたので、たっぷり浴槽にお湯を満たして浸かろうと思い、湯船にはいったまま水とお湯の勢いよく出していると、何故か途中から、湯水がどんどん冷たくなってくる。驚いて確かめると、さっきまでお湯を出していた蛇口から噴き出しているのは冷水だった。しばらくしたら直るかもしれないと思い、そのままにしていたが、一向にお湯が回復する気配はない。その間にもどんどん湯水は冷たくなってくる。風呂の中からクレームするわけにもいかず、仕方なしに水をとめ、急いで身体を洗い、冷水をかぶって石鹸をおとし、風呂を出た。その後、ホテル側にこのことをクレームしたが、どうも話が通じない。よくよく話を聞くと、要は出すお湯の量は限られているらしいのだ。だから、その量でぼくは入浴を済ませなければならなかったのだ。 

 その時はさすがにこれではあまりにもケチ臭いではないか、と思ったものだったが、後になってこのクラスのホテルではこれはまだいい方だということが分かってくる。日本人とヨーロッパ人の入浴習慣の違い、ということもあるだろう。しかし、やはり第一に水の貴重さが違うのだと思う。そもそもこのクラスのホテルに泊まって、お湯にどっぷり浸かって入浴しよう、という考え自体が向うに言わせれば虫が良すぎるのである。そんな贅沢な思いをしたければ星が5つあるホテルに泊まればいい。ホテルがクラス分けされているのも、そうゆう意味があるのだ。ぼくらのような貧乏旅行者は分相応のところに泊まり、高望みをしてはいけないのである。 
 逆に考えるとこんな不自由をしながら旅をするのもまた一興で、それが若さの特権なのだ。・・・そうゆうふうに旅を通じてぼくは学んでいくことになる。 
 実際、ぼくはそれから旅の終わりまで、身体を洗うたびに冷水を浴びなければならないことになるのであった。だが、惨めな思いをしていたのも最初のほうだけである。そうゆうもの、と思えば気にならなくなるのだ。 

 一夜明けて、朝食の時間に階下に降りていくと、4人用のテーブルが5つほど置かれただけの小さな食堂に通された。食事の最中にホテルの女主人と思われるお年寄りが、食堂に入ってきて、ぼくと、もう一組の食事をしていた中年のカップルに挨拶をした。そのカップルはカナダから来たという。 
 女主人は、ホテルの紹介などを話始めた。最初、いつ話をこちらに振られるかと緊張していたが、そのうちに女主人の昔話へと移っていったようだった。あれは戦後間もないころの話をしていたのだろうか、1ポンドあれば、家族4人が1週間暮らすのに充分だった、1シリングあれば、パンがどれだけに、野菜がどれだけ、豆がどれだけ、魚もこれだけ買えたものだった…そうゆう時代でしたわ、という内容だった。中年のカップルの方は、興味深く聞きながら時々口をはさんでいたが、細かい話がわからないぼくは、適当に相づちをうっていた。 
 朝食はとても美味しく、ぼくは風呂に関する不満をもう忘れていた。女主人の話はとても味があり、実直なイギリス婦人のイメージぴったりだった。 
 その時は、「なんてアットホームな雰囲気なんだろう。小さいホテルってみんなこんなものか」と好感をもったものだったが、こんなもてなしをホテルの主人から受けたのは、後にも先にもこれが初めてだった。 
 昔は宿屋とはそうゆうもので、主人はそのように客をもてなす習慣だったのかもしれない。そしてこの宿の主人はその務めを忠実に果たす昔気質で、幸運にもぼくはそのようなホテルに巡り会えたのかもしれなかった。 

 しかし結局、そのホテルに泊まるのは1日きりだった。このホテルに来たときはちょっと高いなぁと思ったが、疲れていて、もう面倒だったのだ。あとで冷静になってみるとホテル代は日本円で4000円を越えることがわかった。旅の最初なので、これぐらいは仕方のない出費だったが、大雑把に計算してこの旅には1日5000円以内に抑えなければならない。4000円の宿代はいくらなんでも痛すぎる。 
 それでぼくは別の宿に移ったはずなのだが、次の宿の記憶は全く消えている。 
 やはり、最初に泊まった好ましい印象のこのヴィクトリアステーションの宿のことをぼくは忘れられないのである

【記憶の旅-2】ロンドンは寒いですか?

 機は中東のバーレーンで給油し、現地時間の朝8時ごろロンドンのガトウィック空港にまもなく到着しようとしていた。いったい何時間機内にいたのかわからない。まる1日は機内にいたような気がしたが、おそらく20時間弱ほどだろう。ヨーロッパ上空を通過しているとき、下には一面の雲が広がっていた。客席のスクリーンに映ったヨーロッパの天気図もヨーロッパ中が曇りであることを示していた。 
 ロンドンが近くなり、機が高度を下げて雲の下へ出ると、ドーバー海峡が眼下に広がっていた。なおも高度を下げていくと、土地の様子がはっきりと見えだしてきた。日本の郊外と同じように木々や、点在する家や、畑がただひろがっているだけの風景なのだが、そこは日本とは全く様相が違っていた。何が違うのかはうまく説明はできない。色彩、配置、木々の形、どれをとってもまさに「英国風(イングリッシュ)」なのだ。 
 まるで絵本から飛び出してきたように、農地が、柵が、農道が、家屋が、林が、完璧な配置で並んでいるのだ。その絶妙さはなんとも言い表せない。 
 ぼくの席の隣には、途中の香港からヘミングウェイのような髭をはやした老年の男性が乗っていた。振り返ると彼も身を乗り出してじっとその風景を見ている。高度がいよいよ下がり、低木の畑がはっきりと見えてきた。そのうねり具合、緑のくすんだ色合い、それがまた何とも言えない詩的な風景なのだ。ぼくは思わず老人に向かって呟いた。 
「ビューティフル!」 
「イエス。」彼は肯いた。 
「ビューティフル」 
その言い方には誇りが感じられた。彼は故国に帰ってきたイギリス人なのだな、とその時にぼくは了解した。 

 空港に着くと、乗客は2つのグループに分けられた。イングランドのパスポートをもっている乗客と、そうでないものだ。 
 それから入国審査がはじまった。やっと長旅を終えてほっとしていたぼくは、ここで思わぬ緊張にさらされることになった。ぼくの並んだ窓口の審査官は四角い顔をしたおばさんだった。彼女はぼくのパスポートに目を通し、「審査」が始まった。 
「目的は?」 
「観光です」 
「滞在期間?」 
「2ヶ月です」 
本当はもう少しいるつもりだったが、ぼくはそう答えた。 
「2ヶ月?その間の滞在地は?」 
「それからヨーロッパをぐるっと回ります」 
「ぐるっと?どこの国ですか」 
ぼくにはまだ何のプランもなかったが、その場で作るしかなかった。 
「フランス、ドイツ、イタリア、スペイン、それからフランスです」 
「どこから日本に戻るのですか?」 
「あっ、それからロンドンに戻って、そこから発ちます」 
「職業は?」 
「学生です」 
「今、大学は休みじゃないはずですが?」 
 ぼくは少し慌てた。 
 そもそもぼくの在籍していた私立大学は、ゴールデンウィークを過ぎたらばったり学生の姿がなくなるというところである。そうゆうところに4年も通っていたぼくは、本来それは国際的に通じるはずのない現象だということに気づいた。ここで日本の私立大学の学生の生態を説明して、カルチャー・ギャップを埋めようと努力しても話がややこしくなるだけだ。顔の筋肉を固定して、「俺、疲れてるんだけど」という表情が崩れないように注意を払いながら、ぼくは大うそをついた。 
「はい。しかし、ぼくはほとんどの単位をクリアしてまして、あとはレポートを提出するだけなんです」 
 審査官はしばし、疑わしげに沈黙していた。その間ぼくは「長旅に疲れた顔」を保ち続けていた。審査官はさらに言った。 
「あなたの専攻は何?」 
 どこまでツッこんでくるんだ、このオバサンは。 
政治学です」 
 頼む、これ以上のツッこみはやめてくれ。ぼくは祈り始めた。 
しばしの沈黙の後、やがて審査官は言った。 
「帰りの便のチケットは持ってますか」 
「あ、はい」 
 ぼくの帰りのチケットはオープンだったが、仮の日付がはいっていた。 
 それを一瞥するとそのオバサンは何も言わずにぼくのパスポートを引き寄せ、ドン、と入国スタンプを押した。 

 イギリスの入国審査は厳しいぜ、と友人に言われたことをぼくは思い出していた。 
彼がイギリスに入国するときは一晩、入国管理局に泊められたそうだ。 
 しかし彼はヨーロッパをヒッピーのように放浪していて、海路で上陸しようとしたところを止められたのある。こちらは堂々と正面玄関から入国するのだ。それとは事情が違う。まぁ、大丈夫だろうと思っていたが、それは甘かったのだった。イギリスという国は当時、外から流入する若者に非常に神経を使っていた。要するに就労ビザを取らずに、そのまま働いて居つく外国人が跡を絶たないのだ。ぼくみたいな如何にもフラフラした若造は特に警戒されてたんだろう。 
 それにしても、とぼくは思った。なぜ帰りのチケットを見せて済むなら、最初からそう訊かないのだ?あれでは効率が悪くてしかたあるまい。若い旅行者を見るたびに、あんな質問を繰り返しているのだろうか? 
 ご苦労なことである。 

 次の問題は、どうやってロンドン市内に行くかだった。 
 この便のチケットを買うとき、受付の女性に「この航空会社ですと、到着地はヒースローではなく、ガトウィックになってしまいますが、よろしいですか?」と確認されたが、そのときは「London, Gatwick 」という表記を見て、別にロンドンに着くならいいや、と気にもとめなかった。しかし、「なってしまいますが」という響きの裏には、やはり理由があったのだ。空から見ていたときにも、都会を感じさせるようなものは周囲にまったく見あたらなかったので、少し不安を覚えたが、やはりこの空港は成田ほどでないものの、都心からはかなり離れた場所に位置する空港だったのだ。 
 空港に乗り入れているロンドン行き列車の時刻表を見て、やれやれと思った。ロンドンまで待ち時間を入れてあと1時間半はかかるのだ。その運賃も10ボンド(約2000円)ほどでけっこう懐に響いた。しかし、他に手だてはない。とにかく早く市内について宿を決め、一息つきたかった。 
 車内は空いていて、ゆっくりと身体を伸ばすことができた。真新しい車両は実に清潔感があって、気分もくつろいだ。列車が動き出すと、ようやく張り詰めていた緊張が解けてきた。結局、機内ではほとんど眠っていなかった。この長い最初のプロセスもやっと一区切りして、あと1時間ほどでやっと最初の目的地、ロンドンに着く。やっと旅が始まるのだ。ロンドンにはどれぐらい滞在しようか。どこを見て回ろうか。…ぼくの中に、旅に出た高揚感が戻ってきた。 
 そこへ、乗務員がチケットを確認しに来た。ぼくはチケットを見せたあと彼に「ロンドンは寒いですか?」と訊いた。別に必要があった質問ではなく、ただぼくは無性にこの地の人と話をしてみたかったのだ。ところが、彼はきょとんとした顔をしている。どうやら通じなかったらしい。「ロンドンは、寒いですか?」とぼくは同じ質問を繰り返した。ところが彼はますます当惑した表情になり、助けを求めるように1つ奥の席のおばさんたち3人を見た。おばさんたちはすでにこちらに注目していた。 
「ロンドンは、寒い、ですか(Is it cold in London)?」ぼくはまた繰り返した。すると、おばさん達は乗務員と顔を見合わせ、そしてその中の一人が言った。 
「ミスター、1ポンドは12シリングですが、100セントで1ボンドですよ」 
 確か、そのように言ったと思う。今度はぼくが相手の言葉をよく聞き取れなかったのだ。今度はぼくが呆気にとられた。どこをどう聞き違えたらそんな答えになるのだ? 
「No,No,ぼくは、ロンドンは、寒い、ですか、と言ったんです」 
 すると、今度はおばさん達が一斉に協議を始めた。「彼が言ってるのはこうよ。」「いや、こう言ってるんじゃない?」 
 そして、さっきのおばさんが言った。 
「あの、1ポンドは12シリングでセントでは100セントなんですよ」 
 何故、このたった5語の言葉が通じないんだ? 
 今や、乗務員もおばさんたちも、固唾をのんでぼくの反応を待っている。おばさん達の中には怯えの色さえうかんでいる。たった一言からえらいことになってしまった。しかし、なぜ通じないんだ?やはり、あれかな。Lの発音が悪いせいか?今度はこうだ。 
「IS – IT – COOOLLLLLLLLD – IN – LLLLLLLONDON ?」 
 彼らはシーン静まりかえっている。通じてねぇっ、と直感して次はゼスチュア入りでやった。 
「IS – IT 」と言葉を2つ、空中にドン、ドンと置き、 
「COOOLLLLLLLD」と、肩を震わせ、 
「in LLLLLLONDON ?」 で列車の進行方向を指さした。 
 なんだ、という顔をして乗務員が答えた。 
「ええ、まぁそうです。この季節ですから」 
 おばさん達もほっとした顔をしてまた、彼女たちのおしゃべりに戻っていった。ぼくもまたほっとするにはしたが、たったそれだけの言葉が通じなかったことにひどく打ちのめされていた。やはり、本場ではぼくのいいかげんな英語など通じないのか…。今の会話でこれだけモタモタしていたらこの先が思いやられる…。 
 それにしても何故、シリング云々の話になったんだろう?そんな通貨は、とっくに廃止されていたのに。それともぼくの聞き違いだったのか。。。 

 そうしているうちに、回りの景色は変わり、列車はいつしか工場や倉庫立ち並ぶ区域に入っていった。暗い曇り空を背景に、それはひどく陰鬱な風景だった。突然、ぼくの目に見慣れたものが映った。ピンク・フロイドのアルバムのジャケットだ。『アニマルズ』というアルバムのジャケットには、確かロンドンの発電所が使われている。 
 荒涼とした風景の中で、それがドキッとした瞬間だった。 

 そしてしばらくして列車は終着駅に到着した。 

 ヴィクトリアステーションはロンドンの南にあるターミナル駅だ。広大な空間に何本もの線路が乗り入れ、ここで終わっている。日本で似た光景といえば上野駅ぐらいだが、ヨーロッパではこれが普通だ。これは旅を続けていくうちに気づいたのだが、ヨーロッパの多くの大都市の駅は市街区の縁にあり、長距離を結ぶ鉄道はそこから発し、そこで終わっている。そして市街区内は市バス、あるいは地下鉄といった市内の交通機関で移動する。要は、都市間を点と点をつなぐように結んでいる長距離路線と点である都市の中を巡っている市内交通、というのにはっきりと分かれるのだ。ターミナル駅というのは字のごとく、都市間を結ぶ線路の終端(ターミナル)なのだ。知っている人間には当たり前のことかも知れないが、それからいくつもの街を巡っていくうちに、ぼくは普段何となく使っていたこの言葉の意味するところを実感することになる。ヨーロッパでは都市の独立性が高いというのか、都市の「内」と「外」が非常にはっきりしている。だから、市街地がだらだらと続く日本とは違い、都市から都市へ移動していると、はっきりと一つの点から次の点に向かっていることを意識する。時には次の「点」につけば、そこが言葉も習慣もまったく違った世界だったりするのだ。ターミナル駅とはまさしく、それまでの旅の終端であり、新しい街の入り口なのだ。 

 そして、ぼくはやっと旅の入り口に立ったのだった。

【記憶の旅-1】ふたつの風景

 「生まれてから今まで見た風景で、一番心に残ったものは?」と、ぼくは時々人に質問する。 
 人によって答えは違うし、なかなか答えが返らない場合もある。実はぼくはその答えを持っていて、実はこうゆう質問をするときはそれを語りたい時である。それがぼくという人間のバックグラウンドを語ってくれるかもしれないからだ。 
 ぼくがその質問をされたら、ぼくは二つの風景を迷いなくあげる。二つとも優劣つけがたく、どちらかを選ぶことはできないのだ。 
そのどちらも、本当にこの目で見たものなのか、と思われるほどこの世離れした風景なのだが、確かにどちらもぼくの目に映って魂に焼き付けられたものに違いないのだ。 

 その二つともが、飛行機の上から見た風景である。 

 最初は、8才の時。 
 その頃ぼくの家族は父の任地の南アフリカ共和国で暮らしており、父の4年の任期が終わってぼくたちは帰国の途についていた。もちろん今でも南アフリカと日本の直行便などないはずだが、この時ぼくたちも、住んでいたヨハネスブルグからいったんパリまで行き、ヨーロッパの国々を回って日本に向かう予定だった。 
それはぼくにとって、記憶に残る初めての飛行機での旅だった。ご多分にもれずメカと言えば目を輝かせていたぼくにとって、初めて乗る飛行機は興奮の連続だった。その後何度か乗り継いだ飛行機の機種はその頃全部覚えていたが、今はこの時の便がエールフランスだったことしか覚えていない。まだジャンボジェットが就航前の話である。 
初めて乗る飛行機はとても清潔に感じられ、ぼくは用もないのに何度もトイレに行っては、手を洗ったり、ドアを開け閉めしたりしていた。けれども途中給油のため立ち寄ったキンシャサを発ってからもうすでに長い時間が経っていた。さすがにぼくは退屈しきっていて、腕時計を眺めてはあと何時間何分、ということを確認して時間をつぶしていた。目的地のパリには深夜に到着する予定だったが、まだまだ先は長かった。 
 ふと、機内の様子が変わってきた。少し陽が落ちてきた気配が機内に満ち初めていた。窓の外を見るのはとっくに飽きていたが、ぼくはもう一度窓の外に目を向けてみた。 
 次の瞬間、ぼくは何を見ているのか分からなくなってしまった。 
 赤だ。赤い色彩が一面に広がっている。頭上には蒼い空が見えるのだけど、下のほうはただ赤い色彩しか見えないのだ。その赤色の中に視線は吸い込まれ、距離感も空間の感覚も消えうせてしまう。空の蒼とその赤色は、どこかで分かたれているはずなのだけど、遠くをみても何か曖昧な深みに飲まれて、境目は判然としない。もちろん当時のぼくは抽象絵画なんて思い浮かばなかったが、その世界に入ってしまったかのようだった。ぼくはその色彩に圧倒されていた。 
 最初のインパクトが去ると、ぼくはほどなく合理的に自分の目に映っているものを解釈しはじめた。そうか、飛行機は今サハラ砂漠を縦断中なのだ。砂漠の色は黄色と思っていたけど、今は日没時で、きっと夕陽が砂漠を染め上げているんだろう。

ぼくが覗いている窓は東を向いているから夕陽は見えない。東の空から徐々に暮れていく夜の闇が、空と砂漠の境界を飲み込んでいるんだ。・・・というような事を理解したのだった。 
 しかし、理解してもなお、それは信じがたい、圧倒的な光景だった。ぼくはいつまで窓の外を見続けていたんだろうか。もう思い出せないけれども、この砂漠を渡っている間に夜が訪れたことは確かである。 

 次の光景を見たのは、ぼくが学生の時・・・正確に言うと学生を終えようとしている頃だった。 
 今にして思えば、最初の光景に出会ってから、この2回目の光景に出会うまでの間、15年でしかない。15年、というと長いのか短いのかちょっとわからない期間である。ぼくが父親になってから14年だし、15年前の事は鮮明に思い出せる。たいして長い期間であるとも思えない。 
 ただ、ぼくが子供と時と学生になってからの15年というには、世の中に大変な変化をもたらしていた。1ドルにつき固定で360円だったドルの価値は、変動相場となりその半分ぐらいまで下がっていた。おかげでぼくのような中産階級出の学生でも、海外に旅行に行くのが現実的になってきていた。現にリュックひとつ背負って海外を旅する若者はこの頃にはかなりいたし、そうした貧乏旅行者用のガイドブックまで出ていてたのだ。 
 だから貧乏旅行のノウハウのようなものも確立されつつあり、まったく未知なものではなかったのだ。 
 そしてぼくも、大学生活も最後だし、いっちょうリュックひとつでヨーロッパを旅してやろうと日本を飛び出していった一人だった。

そんなわけで、ぼくはその時、東京発ロンドン行きのキャセイ・パシフィックのジャンボ機上にいた。キャセイ・パシフィックといえば今では格が上がってしまったけれど、当時は格安航空券を扱うマイナーな航空会社だったのだ。 
 そして、今でもそうだと思うけれど、ヨーロッパ行きの格安チケットというのは南回り航路なのだ。すなわち、成田から香港に寄り、さらに中東のバーレーンにストップオーバーして、ロンドンに向かう航路である。 
 乗る距離は北周りよりもずっと長いのに、運賃が格安というのはどうゆうことか未だによくわからないけれど、とにかくそうゆう事になっている。 

 さて、それは香港を出て何時間もしてからのこと。 
 成田を昼近くに出た便はロンドンには翌日の朝方着くはずであった。地球の自転とは逆向きに進むわけだから、出発時刻と到着時刻の差、実際の飛行時間は食い違ってくるはずだった。今となっては実際に何時間飛行していたのかも思い出せないのだが、その時のぼくは他にすることもないので、今だいたいどの辺を飛んでいて下界では何時ごろなんだということを計算して時計を合わせていた。その時、飛行機はインド上空を飛んでいるはずだった。 
 ぼくは窓の下を見下ろすと、かなり大きな都市の上を飛んでいるらしく、人口の光が広がっていた。どこまで続くかと見ていたら、それがどこまでもどこまでも途切れない。これはよほど大きな都市だ。ニューデリーの上空でも飛んでいるんだろうかと思って眺めていた。その明りがようやく途切れると、こんどは地表は真っ暗になる。そうしてしばらくした頃、ぼくの目に妙なものが映った。 
 下ではなく、ほとんど目線を下げずに向こうの方を見ると、なにやら光っているのである。青白い光が脈打つように、明るくなったり暗くなったりしているのだ。その光

を見ているうちに、ぼくはさらに異様なものを認めた。 
 壁、のようであった。はるか彼方の大地にそびえる壁のようなものが、その青白い光に浮かびあがっているのだ。何がどうなっているのかわからない。あんなに巨大な壁などあるわけはない。それ自体の姿は見えないのだが、光に浮かび上がってたそれは実体をもっているのは確かだった。 
 それが何であるのか、しばらくして思い至った。 
 航路は東から西へ向いている。そして僕の窓は北向きである。その方角にあるものといったら、ヒマラヤ山脈である。それしか考えられなかった。 
 そう思っても、ぼくにはなお自分で見ているものを信じかねた。それにしても、山があんなに巨大に見えるものだろうか?いくらインド上空とは言え、もっと北に行かないとヒマラヤは望めないのではないか? 
 だが、ヒマラヤ山脈は8千メートル級の山々が連なる山脈である。8千、というと飛行機の高度もそんなものだろう。だいいち、それだけの山をぼくは今まで見たことがなかった。ぼくが見ているものがヒマラヤだとすると、それまでの経験では計り知れないスケールのものを見ているわけだ。経験が通用するわけはなかった。自分が見ているものをそのまま認めるしかない。 
 では、なぜ空が光っているのだろう?これについて、ぼくがその場で考ええたことは、おそらく雷雲が発生しているのだろう、あの明るさは雷なのだろう。それにしても、たまたまその時偶然に雷雲が発生しているのだろうか?それとも、いつもこうなのだろうか?それとも、あれは雷などというものではなく、ヒマラヤはいつもあのように発光しているのだろうか?・・・考えてもわからないものはしかたなった。 
 それを見ているぼくは、深く感動している自分に気づいた。その光っている部分には、奥行きが感じられ、そこにひとつの世界があるように見えた。まさに天上の世界である。こんな神々しい光景を見たことがあっただろうか?ぼくは自分が見ているものが人間の見うるものの中で最高のものではないか、と思っていたのである。 

 今、自分の人生を俯瞰して見れる年頃になって思うのだが、ぼくはちょうど自分の人生の節目にこの2つの風景を見ていたことになる。 
 最初のものがぼくの幼年期の終わりだとすれば、二番目のものは若年期の終わりである。 
 そのヨーロッパの一人旅が終わればぼくは会社に就職し、社会というものに嫌でも組み込まれていくことになるだろう。 
 ぼくにとってその旅はそうゆう位置づけにあったのだった。

ご挨拶とこのブログについて

はじめまして

hisajiと申します。

初めてブログというものを始めてみましたが

このブログは私自身のことを書くために始めたものではございません。

 

私の知人が遺した文章があり、彼はそれを一部の人達だけに公開していましたが

その存在を知っていた方々にデータにまとまった状態でいただきました。

 

せっかくいただいたのになかなか読み進めることができなかったのですが

最近彼のことをよく考えるようになり、自分で読み進めるモチベーションとして

ブログ小説形式で載せていこうかなと思い、始めてみました。

 

「他人が読んだらどう思うんだろう」という楽しみもできるので

気楽にやっていこうと思います。

 

投稿間隔などは特に決めていませんが、なるべく空けないようにしたいと思ってます。

たまに彼について思い出したことや私自身のことも気が向いたら書くかもしれません。

 

タイトルは「記憶の旅

とても長いので気長に、ゆっくり、少しずつ読んでいただければ幸いです。