記憶の旅-Journey of his memory-

知人が遺した文章を載せるため、また自分が読むためのブログです。

【記憶の旅-3】ヴィクトリアステーションの宿

 ぼくは、日本から一冊のガイドブックを旅の道しるべにと持ってきていた。「地球の歩き方」という当時は貧乏旅行者にとって定番のものだった。このガイドブックは所詮、投稿情報で作られているため、その情報と来たらいい加減きわまりない。しかし、そうゆうことを骨身に染みてわかってくるのは後になってからのことである。この時点ではまだぼくはこのガイドブックを頼りにしていた。 
  
 機内ではほとんど眠れていなかったし、旅の緊張もとけてきたせいで、どっと疲れが押し寄せてきた。持ち物はリュックひとつきりだが、10キロ以上の重さがあった。歩き始めると、身体はセメント袋のように重く、一歩一歩引きずるように歩いていた。 
 とにかく近くに宿を決めて休まければ。 
 ガトウィック空港から終点のヴィクトリアステーションに着いたが、「歩き方」を見ると、この駅の裏手には、安ホテルが数多くあるらしい。ぼくは紹介されているホテルの一つに目星をつけ、そこに向けて歩き出した。駅自体が巨大なので駅の裏手に出るにもたいへんな時間がかかった。もうろうとしてきた頭で通りの名前を確かめるのだが、ガイドの地図がいい加減でどうも位置関係が分からない。ほとんど直感に頼って、なんとかホテルのある通りを探し当てた。しかし、そのホテルがどうしても見つからない。探しながら歩いていて、とうとうその通りの端まで出てしまい、また戻りながら地図をみていると、「お困りですか?」と女性のお年寄りに声をかけられた。ぼくが地図を見せると、お年寄りも首をかしげている。やがて、あそこじゃないかしら、と身振り手振りで教えてくれた。行ってみると、書いてあるホテルの名とは全然違う。値段も、紹介されていたのよりは少し高い。しかし、もうぼくはこれ以上探す気力はなかった。それに、ここでまだホテル探しをつづけてあのお年寄りにあったら悪いな、という気持ちもあって、ぼくはそこを最初の宿にすることにした。 
 まだチェックインできる時間ではなかったので、ぼくはいったん荷物を預けてまた表に出た。その日はどんよりと暗い雲に覆われていて、時々小雨が降る暗い日だったが、身軽になるとまだ動けそうだったし、旅を始めた高揚感を無理やり奮い立たせて、ヴィクトリアステーション界隈を散策してみることにした。今日はとりあえず情報収集をしよう、とぼくは決めた。何せ、右も左もわからないのだ。情報は命綱である。 

 「歩き方」に書いてあった貧乏旅行者の原則の一つが、「新しい街に着いたらまずインフォメーションへ行け」ということである。だいたい、ターミナル駅には青い円にiと書かれた目印がある一角があり、それがインフォメーションだ。そこでは街の概略の地図と、市内の交通機関の地図が無料で手にはいる。これは確かに貴重な情報だった。 
 それに従ってぼくはまずインフォメーションオフィスに向かうことにした。なるほど、ここでぼくはロンドン界隈のホテルの情報を仕入れることができた。しかし、無料でもらった地図ははなはだ心もとない大雑把なものだった。さっきホテルを探すのに散々迷ったので、地図はある程度精密なものがほしかった。 
 そこで、次にぼくは本屋に向かった。 
 日本のターミナルビルで見るような明るい本屋がすぐ見つかった。 
 目的の地図を探すのに、いろいろな地図を広げてみては簡単すぎず、詳しすぎず、かさ張らずに一枚で街を見通せるようなものを探した。 
 いろいろ物色して思ったのだが、どうもイギリスの地図というのはどこか安っぽい。道を示す線もなんとなく手で書いたような歪みがあり、精巧さを感じない。・・・あとで色々な街の地図を手にいれることになるのだが、これはどこの国でも同じような印象をうけた。つまり、逆に言えば日本の地図のクオリティが非常に高いのだ。ぼくがその品質に馴れすぎていただけの話なのである。
 ようやく一番ましだと思われる地図を決めたが、これはなかなか暇つぶしになった。この本屋で時間をつぶしていたら、チェックインの時間はあっという間にきそうだった。 
 いろいろな本棚を見てまわり、知っていそうな名前があると引き抜いてぱらぱらページをめくってみた。作家の名前はすぐにわかっても、作品名は英語を見ただけではちょっとわからないものもあった。有名作家のそうした本を見つけては、中身を見て、日本訳の署名を推し量ったするのはけっこう楽しい暇つぶしだった。 
 見ているうちに、本を一冊買おうかという気になった。日本からはルネッサンスについて書かれた文庫本を一冊持ってきただけで、他に何も持たずにきた。極力、荷物は少なくするつもりだったのでこれ以上増やしたくはなかったが、ペイパーバック1冊ぐらいならいいだろう。駅で電車の時間待ちをしているときに気軽に読めるような本。 
 いろいろ物色してぼくが選んだのは、"Catcher in the Rye"、サリンジャーの「ライ麦畑でつかまえて」だった。 

 やっとホテルにチェックインして、荷物をほどくと、ぼくはまず風呂に入ることにした。そこで風呂に入りたいのだが、と言うと、風呂に入るには追加料金が必要だという。やむおえないので払って浴室に行くと、そこには一人用のバスタブがあるだけだった。こうなるとホテルというより民宿といった感じだった。 
 窮屈な機内にいたせいで身体はあちこちこわばっていたので、たっぷり浴槽にお湯を満たして浸かろうと思い、湯船にはいったまま水とお湯の勢いよく出していると、何故か途中から、湯水がどんどん冷たくなってくる。驚いて確かめると、さっきまでお湯を出していた蛇口から噴き出しているのは冷水だった。しばらくしたら直るかもしれないと思い、そのままにしていたが、一向にお湯が回復する気配はない。その間にもどんどん湯水は冷たくなってくる。風呂の中からクレームするわけにもいかず、仕方なしに水をとめ、急いで身体を洗い、冷水をかぶって石鹸をおとし、風呂を出た。その後、ホテル側にこのことをクレームしたが、どうも話が通じない。よくよく話を聞くと、要は出すお湯の量は限られているらしいのだ。だから、その量でぼくは入浴を済ませなければならなかったのだ。 

 その時はさすがにこれではあまりにもケチ臭いではないか、と思ったものだったが、後になってこのクラスのホテルではこれはまだいい方だということが分かってくる。日本人とヨーロッパ人の入浴習慣の違い、ということもあるだろう。しかし、やはり第一に水の貴重さが違うのだと思う。そもそもこのクラスのホテルに泊まって、お湯にどっぷり浸かって入浴しよう、という考え自体が向うに言わせれば虫が良すぎるのである。そんな贅沢な思いをしたければ星が5つあるホテルに泊まればいい。ホテルがクラス分けされているのも、そうゆう意味があるのだ。ぼくらのような貧乏旅行者は分相応のところに泊まり、高望みをしてはいけないのである。 
 逆に考えるとこんな不自由をしながら旅をするのもまた一興で、それが若さの特権なのだ。・・・そうゆうふうに旅を通じてぼくは学んでいくことになる。 
 実際、ぼくはそれから旅の終わりまで、身体を洗うたびに冷水を浴びなければならないことになるのであった。だが、惨めな思いをしていたのも最初のほうだけである。そうゆうもの、と思えば気にならなくなるのだ。 

 一夜明けて、朝食の時間に階下に降りていくと、4人用のテーブルが5つほど置かれただけの小さな食堂に通された。食事の最中にホテルの女主人と思われるお年寄りが、食堂に入ってきて、ぼくと、もう一組の食事をしていた中年のカップルに挨拶をした。そのカップルはカナダから来たという。 
 女主人は、ホテルの紹介などを話始めた。最初、いつ話をこちらに振られるかと緊張していたが、そのうちに女主人の昔話へと移っていったようだった。あれは戦後間もないころの話をしていたのだろうか、1ポンドあれば、家族4人が1週間暮らすのに充分だった、1シリングあれば、パンがどれだけに、野菜がどれだけ、豆がどれだけ、魚もこれだけ買えたものだった…そうゆう時代でしたわ、という内容だった。中年のカップルの方は、興味深く聞きながら時々口をはさんでいたが、細かい話がわからないぼくは、適当に相づちをうっていた。 
 朝食はとても美味しく、ぼくは風呂に関する不満をもう忘れていた。女主人の話はとても味があり、実直なイギリス婦人のイメージぴったりだった。 
 その時は、「なんてアットホームな雰囲気なんだろう。小さいホテルってみんなこんなものか」と好感をもったものだったが、こんなもてなしをホテルの主人から受けたのは、後にも先にもこれが初めてだった。 
 昔は宿屋とはそうゆうもので、主人はそのように客をもてなす習慣だったのかもしれない。そしてこの宿の主人はその務めを忠実に果たす昔気質で、幸運にもぼくはそのようなホテルに巡り会えたのかもしれなかった。 

 しかし結局、そのホテルに泊まるのは1日きりだった。このホテルに来たときはちょっと高いなぁと思ったが、疲れていて、もう面倒だったのだ。あとで冷静になってみるとホテル代は日本円で4000円を越えることがわかった。旅の最初なので、これぐらいは仕方のない出費だったが、大雑把に計算してこの旅には1日5000円以内に抑えなければならない。4000円の宿代はいくらなんでも痛すぎる。 
 それでぼくは別の宿に移ったはずなのだが、次の宿の記憶は全く消えている。 
 やはり、最初に泊まった好ましい印象のこのヴィクトリアステーションの宿のことをぼくは忘れられないのである